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今回は、宮沢りえの母親についてお話しします。
宮沢りえといえば、日本を代表する国民的大女優ですが、その母親は一部で「毒親」と呼ばれています。
しかし、宮沢りえの母親の「毒親」と呼ばれる行動は全て宮沢りえを想ってのことであり、今の宮沢りえがあるのは母親のおかげだったようです。
というわけで、宮沢りえの母親の毒親と呼ばれる噂の真相に迫りましょう。
・宮沢りえの母親が毒親と呼ばれる所以と噂の真相
・母親の人物像
・宮沢りえの母親に対する想い
Contents
宮沢りえの母親・宮沢光子に関する黒い噂と本当の姿について
✅まずは、宮沢りえの母親の黒い噂についてお話しします。
宮沢りえの母親は「毒親」と呼ばれていますが、これは事実なのでしょうか?
ここでは、宮沢りえの母親の「毒親」と呼ばれるエピソードや、毒親と呼ばれる黒い噂の真相についてお話ししします。
毒親と呼ばれたエピソードの真相
✅今や国民的大女優となった宮沢りえですが、その母親は宮沢りえに対して「毒親」ともとれる行動・言動の数々をしてきたと言われているのですが、その真相はどうなのでしょうか?
宮沢りえの母親の毒親と噂されるエピソードには、以下のようなものがあります。
・セクシー写真を娘に撮らせる
・娘に枕営業をさせた
・恋愛事情を管理
詳細を確認していきましょう。
エピソード① 娘のセクシー写真を撮らせる
✅宮沢りえのヌ〇ド写真集『サンタフェ』のプロジェクトは母親手動のもとに実行されたというもの。
当時宮沢りえは18歳でしたが、セクシー写真集『サンタフェ』を発売しています。
カメラマンは篠山紀信で、売り上げは155万部。
若くして人気絶頂だった宮沢りえのセクシーな姿を納めた『サンタフェ』はものすごく人気のあった写真集でした。
しかし、このセクシー写真集の販売を促したのは母親である宮沢光子というのが定説。
撮影初日にセクシーショットを撮影しなかった篠山紀信に対して激怒した宮沢光子は、
「〇ード写真を撮りなさい」
と言い放ったのだとか。
芸能界の大御所であるビートたけしも、「娘にセクシー写真を撮らせるなんて」と宮沢りえの母親を非難していました。
しかし、このエピソードはあくまでも噂であり、宮沢りえの母親が実際にやったという確証はありません。
そのため単なる噂である可能性が高いです。
たとえ事実であっても、純粋に「娘をトップ女優にしたい」切なる想いで写真集発売にゴーサインを出したのでしょう。
エピソード② 娘に枕営業をさせた
✅宮沢りえの母親・宮沢光子の毒親エピソードには、娘に枕営業をさせたというものもあります。
1992年に映画『エロティックな関係』やインスタントラーメンで共演した宮沢りえとビートたけし。
インスタントラーメンの撮影はホテル宿泊での長時間ロケでしたが、その際に宮沢りえの母親が宮沢りえに対して「たけしさんの部屋へ行きなさい」と言ったとの事。
ビートたけしは宮沢りえを傷つけないよう、早く帰りなさいと部屋に帰るよう促したという事の様ですが、流石にこちらのエピソードは確証はないので単なる噂の可能性が高いです。
エピソード③ 恋愛事情を管理
✅他にも宮沢りえの母親には、娘である宮沢りえの恋愛事情を管理していたというエピソードもあります。
宮沢りえの母親・宮沢光子は「芸能界の一流スターと娘を交際させたい」と思って、宮沢りえの恋愛事情を管理していました。
1994年に歌舞伎役者で既婚者の中村勘三郎と熱愛を噂された宮沢りですが、それも母親による指示だったといわれています。
宮沢りえの母親は、相手に妻子がいても年が離れていても関係なく、「女性としてプラスになる相手」と交際するよう娘の恋愛をコントロールしていました。
これもビートたけしの枕家業のときと同じで、宮沢りえをトップ女優に仕立てるべく企てた宮沢りえの母親の作戦です。
そして、これらの毒親エピソードはどれも噂の範疇で、確証がありません。
こちらの「恋愛事情をコントロール」というのも単なる噂の可能性が高いです。
毒親エピソードはあくまでも単なる噂であり、仮に事実だったとしても母親なりに娘を想ってとった行動だと考えられます。
宮沢りえの母親は娘に成功してほしいと思うあまり、毒親と思われてしまうような言動・行動をしたのでしょう。
一流プロデューサー
✅また、宮沢りえの母親は宮沢りえを国民的大女優に育て上げた一流マネージャーでもありました。
宮沢りえの母親は宮沢りえの芸能界デビューも快く受け入れ、セクシー写真集も「一番綺麗な特にこそ〇ードを」とあくまでもポジティブな思考で持ち掛けました。
1987年14歳のとき、宮沢りえは『三井のリハウス』のCMに出演し、トップアイドルに昇り詰めます。
その後もファッション雑誌『セブンティーン』の表紙を飾るなど着々と芸能界で名を馳せていきますが、これらの母親のマネジメントによるものでした。
当時宮沢りえの母親は「敏腕マネージャー」とも言われており、宮沢りえがブレイクするとすぐに個人事務所「エム・ツー企画」を立ち上げて経営を開始。
独立後も宮沢りえは着実にトップ女優への階段を駆け上がり、瞬く間に国民的大女優へとのし上がりました。
母親の自己満足でないという証拠に、当時の宮沢りえは母親の指示を素直に受け入れていたようです。
宮沢りえの母親は、娘が大女優になるためなら手段を選ばなかったため結果として「毒親」と呼ばれてしまったのでした。
母親の教育方針と宮沢りえとの関係性
✅宮沢りえの母親の毒親エピソードについてお話ししましたが、実際のところ宮沢りえと宮沢りえの母親の関係性はどのようなものだったのでしょうか?
ここからは、宮沢りえと母親の関係性や宮沢りえの母親に対する想いについてお話しします。
ステージママとなった背景
✅宮沢りえの母親の行動・言動を見ていると娘の芸能界での成功にとても執着しているように見えます。
個人事務所を設立させ、宮沢りえを一躍国民的大女優に成長させた宮沢りえの母親・宮沢光子。
宮沢光子がここまで娘・宮沢りえの成功に執着するのには、宮沢光子自身の生い立ちに関係があったようです。
宮沢光子の生い立ち
✅まずは、宮沢光子の生い立ちから確認していきましょう。
宮沢りえの母親・宮沢光子の生い立ちは壮絶なものでした。
通称「りえママ」として知られる宮沢光子は、1949年うまれで、東京出身の5人兄弟の末っ子でした。
父親は商業デザイナーだったのですが、母親は家を出て行ってしまい父子家庭で育ちます。
宮沢光子は当時バレエや水泳を習っていましたが、父親の「女は家庭に入るもの」という考えに基づき習い事に対して反対され、どちらも本格的に極めることができなかったそうです。
古風な考えの父親とソリが合わなかった宮沢光子は、高校卒業後家を出て六本木でホステスとして働き始めます。
当時の宮沢光子は高身長でスタイル抜群。
加賀まりこいわく若い頃の宮沢光子は「宮沢りえ以上の美人」だったそうです。
宮沢光子は女優を目指していたという噂も。
ホステス時代の宮沢光子はお客さんと対人関係でトラブルを起こしていたようですが、オランダ人男性と出会い、結婚することになりました。
このように、宮沢光子は両親からの愛情を充分に注がれず、精神的にまだ幼いまま家を出て夜の世界に飛び込んでしまいました。
女優を目指していたという噂もありますし、宮沢光子の場合娘が芸能界で成功するようコントロールすることで自分のなしえなかった夢を娘に託していたのかもしれません。
母親との決別
✅両親からの愛情を注がれず、娘をコントロールすることでした満足できなかった宮沢光子。
娘である宮沢りえは、そんな母親に背いて一般人と結婚します。
宮沢りえは2009年に一般人男性でサーファーの中津ひろゆきさんとデキ婚を発表。
中津ひろゆきさんと宮沢りえは、CM撮影のために訪れていたハワイで出会ったそうです。
しかし、一流芸能人と娘を交際させたかった宮沢光子は、娘が一般人と結婚することに反対していました。
宮沢光子の反対が関係していたかは不明ですが、結果的に宮沢りえと中津ひろゆきさんは3年で離婚してしまいます。
それでも、母親に背いて自分の意思で結婚相手を選んだことは宮沢りえにとって大きな一歩だったのではないでしょうか。
このようにして、徐々に宮沢りえは母親の呪縛から解放されていくようになりました。
母親の最期
✅そんな宮沢光子は、65歳という若さで帰らぬ人となっています。
宮沢光子は、2014年9月23日に肝腫瘍で天国へ旅立ちました。
過去に宮沢光子は子宮がんも患って手術をしており、そのせいか感情の起伏が激しくなったり体重が大幅に増えてしまったり大変だったそうです。
肝腫瘍の際には宮沢光子たっての希望で自宅療養だったため、宮沢りえが最期を看取ったとのこと。
宮沢りえは母の人生を「壮絶だった」と語っています。
宮沢りえの母親に対する本当の想い
✅母親によって半生をコントロールされてきた宮沢りえですが、母・宮沢光子のことをどう思っていたのでしょうか?
結論から言うと、宮沢りえは母親・宮沢光子に感謝しているようです。
宮沢光子が亡くなった際、宮沢りえは以下のようなコメントを発表しています。
「最期に、生きるということの美しさと、凄まじさと、その価値を教えても、いました。そういった全ての宝物を胸に私は役者として、母として、女として惜しみなく生きようと思います」
「息を引き取る瞬間も一緒にいられた。壮絶だった。息を吸って吐けることがすごいことなんだと教えてくれたし、命に限りがあると告げられた人に誠実さを欠いちゃいけない。すごいモデルがいたから。」
宮沢りえは、宮沢光子が見せてくれた壮絶な人生と、生きるという意味をしっかり引き継ぎ、自分の人生を全うしようと母の旅立ちを前向きに捉えています。
現在宮沢りえは中津ひろゆきさんとの連れ子と森田剛と仲睦まじく暮らしています。
今宮沢りえが女優として、女性として幸せなのは母親がトップ女優に仕立て上げてくれたからかもしれませんね。
世間の声
✅では、宮沢りえの母親に対して世間の皆さんはどう思っているのでしょうか?
Twitterでの意見をご紹介します。
私、ブルック・シールズとか宮沢りえの親は、娘の裸を晒すのがなんで平気なんだろう、そういう親ではなくて良かった、と思っていました。
母親が男性の視線の意味を知っていて、それでもやらせるの、子供の成功のために必要だという計算なのだとしても、自分が親になった今、余計ありえないです。— リーガン美香 (@Mika_Regan) May 24, 2022
宮沢りえさんの母親(宮沢光子)は2014年9月23日に肝腫瘍で65歳で亡くなられています。
— 沙羅@昭和好き (@sarasoujyu2469) March 21, 2022
#りえママ は、自分と娘りえが似ている事を隠すために白髪を染めず、化粧もせずにいるのではないかと思うのだ。娘のアイデンティティ(美しいという事)のはかなさを予感させてしまうことへの恐怖。#宮沢りえ #ナンシー関 #関直美 #nancy_seki
— ナンシー関(関 直美)名言 ボット (@seki_naomi_bot) May 24, 2022
この頃の宮沢りえさんの可愛さは無敵でした🌸
りえママの影響なのか積極的に攻めていましたね
なんせ、このふんどしの翌年にサンタフェでしたし🤭
田村英里子ってアイドルが追随するかのようにケツだしカレンダーを出して話題になりましたが、そのおかげでアイドルとしての価値は下がりましたが😭— まあく (@bmDD9sHRYkJyvrH) May 15, 2022
「りえママのおかげで宮沢りえは成功した」という意見もあれば、「子供にセクシー写真を撮らせるなんて…」という意見もあり、賛否両論ありました。
毒親と言われてばたしかにそうなのですが、宮沢光子の行動は全て宮沢りえの将来を見据えてのこと。
不器用ながら、自分がなしえなかった夢を叶えてほしい一心で娘の人生にに全力を注いだのでしょう。とても情熱的な母親であることが分かります。
まとめ
✅今回は、宮沢りえの母親についてお話ししました。
要点をまとめます。
・宮沢りえの母親・宮沢光子は毒親と呼ばれているが、それは娘を成功させたい一心でとった行動・言動が原因
・実際のところは毒親エピソードに確証はない。また宮沢光子に悪気はなく、ただ娘をトップ女優に仕立てたかっただけ
・宮沢光子が娘の成功に執着するのには彼女自身の生い立ちが関係あった
・結果的に宮沢りえは母親に感謝している。
宮沢りえの過去にこんな壮絶なエピソードがあったなんて驚きですが、それを実際に行動・言動にうつした宮沢りえの母親もスゴいですね。
ただ、娘の夢を叶えたいという一心でやってきたことなので、一方的に毒親扱いするのはちょっと可哀想な気がします。
今後も宮沢りえには、母親との思い出を胸に幸せな家庭を築いてほしいですね。